皆さん今日は。
先月25日、18時01分。ちょうど農協会議室で会議が始まると同時に、突き上げるような縦揺れがして、会議室にいる一同、机にしがみつき足を踏ん張りました。幸い目立った被害はなく会議は粛々と、そして簡潔に進行し、終わると全員足早に帰宅しました。我が家では被害もなく胸をなでおろしました。ところが翌朝、家の周りや墓地を見回ると、我が家の納骨堂の1.5mくらい高いところに置かれている御影石の墓誌が下に落ちていました。これは大変。動かしてみましたが人力では動きません。結局業者に修理を依頼しました。ところが我が家の被害は軽微なもの。門が倒れた家、電柱が傾いて停電した地区、水道管が破損して断水した地域など、暮らしに直結した物が壊れ、生活に支障をきたした人たちが沢山いたことを時間が経って知りました。
2016年4月の熊本地震から9年。歳月の流れの中で平時の暮らしが当たり前になって無難に暮らしている我が身にとって、今回の地震は当時の記憶を、さらに1975年1月に起きた阿蘇地方群発地震の記憶も呼び戻すものになりました。50年前、当時高校3年生。年間で一番寒い頃、毎日毎日激しく大地が揺れ、農協コメ倉庫にうず高く積まれた米の袋が傾き、倉庫の壁を押し倒し米が散乱。山沿いの地区では石垣が崩壊。石垣の下に住宅がある家庭は農業用ビニールハウスの中で寝泊まりしました。我が家は家の中での暮らしでしたが私は毎晩バイクのヘルメットを枕元に置いて寝ました。そして9年前の地震。大きな災害の直後、みんな隣近所、声掛けして無事の確認をしました。50年前も9年前も集落が一つの単位です。みんな総出で問題解決にあたりました。「自助」「共助」「公助」いつの頃からか使われる言葉ですが、そんな言葉が出来る前からの流儀です。水害もありましたが地区の公民館で住民が主体となって食事の準備をしました。
そんな地域共同体が危機的状況です。9年前まではどこの集落にも現役で人のお世話を出来る人がいたのですがその世代も後期高齢者になり、人のお世話になる方になりました。私の住む山田地区は昔から農業が盛んで専業農家も多かったのですが現在では50歳代から下の世代の農業者は数えるくらいになってしまいました。ひと昔前まで農業で活気のあった、ある40戸くらいの集落では農家は4戸。優良農地があるのに子供に農業を継がせない家庭が増え、若者のいない集落は活気を失い、活気のない集落に若者を引き付ける魅力はなく高齢者と空き家の集落になりました。他の集落も、私の集落も、日本全国の集落、遅かれ早かれ同じ状況でしょう。
本来、私たち農家はどんな災害があっても「自活」できるのが強みでした。米はある、野菜、漬物、山菜、猪肉、ドジョウ、何でもある。ちょっとした道路や山崩れの修繕でもみんな建設重機を使いこなし、いろんな機械があるもの農村です。非常時には市役所に言う前に自分たちで対応した方が早いのも農村です。しかしその農村からエネルギッシュな働き手がいなくなり農村の自活力低下です。
生命活動は太陽エネルギーの循環です。農業は太陽エネルギーを食糧という形に変換する仕事。そしてそれを消費者に提供するのが私たち農家の役目です。農家が食糧を提供することで、皆さんは活力を得、私たち農家は皆さんから買っていただくことで活力を得ます。ところが最近は米高騰の影響で輸入米を買う人、外食で知らないうちに輸入米を食べる人が多いようです。食糧自給率38%と言われている中で、今年、9万トンの米が輸入されました。ちなみに熊本県の生産量15万トン(全国15位)からすると大変な量です。日本の農村は疲弊して、いつまでその機能を維持できるか分からないのに、日本人は海外の農家が元気になるよう活力を送っています。近年の気候変動、紛争などによる不確実性を考えたとき、海外農家の性善説に期待するより日本国内の農家に活力源を送る方に将来的安定性があるように思うのですが如何でしょうか。